鷹の爪
鷹の爪
第22号 2010年 7月26日
平野武文税理士事務所 発行

http://www.office-hirano.com/
今月の目次
はじめに
よみとく ・・・平成23年度の所得税改正
七色めがね・・・老舗に学ぶ
テリマカシ・・・福岡大空襲
あとがき
はじめに

FIFAワールドカップが終わりました。
サムライジャパンの決勝トーナメント進出は、日本中の人々を興奮と寝不足にさせ、そして、次へ、の期待を与えてくれました。

久しぶりの『鷹の爪』も、応援いただけると幸いです。




よみとく
平成23年度の所得税改正
16歳未満の扶養控除が廃止になります
扶養控除については様々な議論がなされましたが、以下のように改正されることとなりました。
 
1.16歳未満の年少扶養親族に係る扶養控除(38万円)を廃止

代わりに今年4月分から子供手当て支給1人月額13,000円が支給されます。

・所得控除が扶養控除(15歳以下の子供1名の場合)と基礎控除のみの場合の
  給与所得者の税額は次のようになります。

(単位:円)
(1)扶養控除廃止前
給与収入 300万円 500万円 700万円 1,000万円
給与所得控除後の金額 1,920,000 3,460,000 5,100,000 7,800,000
所得控除の合計 760,000
課税所得金額 1,160,000 2,700,000 4,340,000 7,040,000
算出税額 58,000 172,500 440,500 983,200
(2)扶養控除廃止後
給与収入 300万円 500万円 700万円 1,000万円
給与所得控除後の金額 1,920,000 3,460,000 5,100,000 7,800,000
所得控除の合計 380,000
課税所得金額 1,540,000 3,080,000 4,720,000 7,420,000
算出税額 77,000 210,500 516,500 1,070,600
(3)所得税の増税額
(2)-(1) 19,000 38,000 76,000 87,400
(4)住民税の増税額
33万円×10% 33,000
(5)増税額計
(3)+(4) 52,000 71,000 109,000 120,400

上記の通り、扶養控除の廃止により給与所得者の納付する税額は増えます。しかし、子ども手当により支給される金額が13,000円×12月=156,000円ありますので、年収1,000万円くらいまでの給与所得者については可処分所得は増えることになります。


2.16歳以上23歳未満の特定扶養親族のうち、年齢16歳以上19歳未満の者に係る扶養控除の上乗せ(25万円)を廃止

代わりに来年4月から国から学校又は学校設置者に対し下記の金額が支給されることになり、授業料が公立高校で無償、私立高校では軽減されます。

  親の所得 支給額
公立高校の場合 118,000円
私立高校の場合  250万円未満 237,600円
250〜350万円 178,200円

ただし、上記の改正は平成23年分以後の所得税(平成24年度分以後の住民税)から適用されますので、今年(平成22年)の所得税はこれまで通りとなります(住民税は1年遅れのため、平成23年度分までこれまで通りです)。

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(今が旬の話題)

老舗に学ぶ−世界最古の会社が日本にある−

世界最古の会社が日本にあることをご存知ですか。テレビでも取り上げられたので、ご存知の方もいらっしゃることでしょう。その会社は大阪にある「金剛組」という建築会社です。 578年飛鳥時代創業で1,400年余り続いています。 聖徳太子の時代から続いている会社が日本にあるなんて、思いもしませんでした。

世界中で200年以上続いている老舗を調べてみると、日本:3000、ドイツ:800、オランダ:200、中国:9、韓国:0というデータがありました。驚くことに日本はずば抜けて老舗の数が多いのです。

どうして、日本では外国よりも長年会社を続けていけるのでしょうか。

ノンフィクションライターの野村進氏は、老舗製造業に関して5つの共通点を以下のように述べています。

  • 同族経営は多いが、血族に固執せず、企業存続のためなら、よそから優れた人材を取り入れるのを躊躇しないこと。
  • 時代の変化にしなやかに対応してきたこと。
  • 時代に対応した製品を生み出しつつも、創業以来の家業の部分は、頑固に守り抜いていること。
  • “分”をわきまえていること。
  • 「町人の正義」を実践してきたこと。
  • 日本では、長男がいるにもかかわらず、血縁関係のない娘婿の方が経営者として優秀であれば、そちらを後継に選ぶ例が少なくないということです。店のためなら、息子より有能な娘婿にという考えのようです。
  • 時代の変化を象徴する携帯電話は、実は、老舗の知恵が詰まった製品だそうです。
    例えば、ケータイの折り曲げ部分には、もともとは金箔屋だった京都にある創業300年福田金属箔粉工業の銅箔が使われています。
    液晶画面には、明治時代にランプや鏡台を製造販売していた静岡にある村上開明堂の小さな鏡が多用されています。
    ケータイの心臓部にあたる発振器には、創業100年以上になるエプソントヨコムが製造する「人工水晶」が埋め込まれています。これがなければ、会話は全く不可能だそうです。
    老舗といえども、時代の変化に対応していかなければ生き残ることはできず、昔からある技術と知恵を活かして、時代の流れに乗りながら存続しているのです。
  • 上記のように時代に対応した製品を生み出しつつ、利益に関わらず、創業以来続いている家業は守り抜いている老舗が多くあります。ここだけは譲れないという、代々受け継がれたものがあって、その延長線上に新規開発があるのだと思います。何でもかんでも、時代に合っているようなことをすればいいというもではないのです。
  • 多くの老舗には家訓があります。例えば、福田金属では「身の程をわきまえる・・・金属の箔と粉の仕事から離れない」といったように、ずっと変わらない家訓があります。儲かればいいというものではなく、あくまで世の中に役立つといった考えが根本にあるようです。
  • 売り手と買い手は、「公正と信頼」を取引の基本として商売をする、ということが「町人の正義」に当たります。それは、拝金主義よりも企業理念や風土が肝心であるという考え方です。哲学者の加藤尚武氏は、「町人の正義」を守り育ててゆくよりほかに人間の生きる道はないと主張しているほどです。

しかし、このような特徴を持たない老舗もあります。「ずっと変わらない老舗」です。これまでのやり方で間違いはなかったと信じ、新しいものを取り入れることに対してすこぶる慎重になっているところです。こういった老舗は危ないと言われています。時代は変わります。「由緒ある」ことだけでは何の保証にもならず、風格や品位といったものでは必ずしも多くの人を魅了しなくなっています。悲しいことですが、なくなっていく老舗もあるのです。

今成功している老舗もその多くは、時代の変化とともに仕事がなくなり、存続の危機にさらされながら、試行錯誤をして現代にまで生き延びてきているのです。 売れる商品を開発した際に、大手企業が共同事業をもちかけ、渡した資料やデータを元に大手企業が製品を開発し、収入が激減した老舗があります。
社会から「公害企業」とレッテルを貼られ、危機にさらされた老舗もあります。
世界最古の会社金剛組でさえも潰れかけた時がありました。しかし、同業者に助けられ、諦めずにチャンスを活かしてきたことで、今でもその会社は存続しています。

経営者なら自社の発展、存続を願って努力するのは当然のことでしょう。しかし、今日の日本は、景気が悪く、多くの企業にとっていい時代ではなく、経営者の方がとても苦しい状況にあることは社会経験の浅い筆者でも容易にわかります。
こういう時代だからこそ、成功している老舗のように諦めず、根本には変わらない信念をもちつつ、時代の流れに則した新しいものを取り入れチャレンジしていって欲しいと願います。
そして、10年20年50年・・・と続けていく為には、今、一所懸命に考え行動することだと思います。

世界最古の企業が日本にあることを知り、何か嬉しい気持ちと同時に継続することの難しさを知るにつれ、現代日本が置かれている環境の中で、いささかでも役に立つことができる力を身に付けねばと改めて思います。

M・E

ライン

テリマカシ (テリマカシとはインドネシア語で「ありがとう」という意味です。)

福岡大空襲

梅雨明けしたと思ったら、いきなりの猛暑となり、やがて今年も8月15日、太平洋戦争終戦の日を迎えることになる。日本人なら誰もが知っている“平和を祈念する日”である。

しかし、その日からおよそ2ヶ月前の昭和20年6月19日のことを、いかほどの人がご存知だろうか?

午後11時過ぎから約2時間、南太平洋マリアナ基地を飛び立った米軍機B29重爆撃機221機が福岡市に焼夷弾を投下した、「福岡大空襲」の日である。

今年で終戦後65年が過ぎようとしている。
その日を経験した福岡の街には、何の面影も悲しみも見えない。

蒸し暑い日本の夏に思う。

太平洋戦争中である昭和19年頃から福岡市では、空襲時の火災を最小限に止めるために、日本軍の命令によって民家の“強制疎開”、つまり家屋の引き倒しと撤去が始まり約1万5千戸が取り壊された。
福岡市民の間に、日毎に空襲への危機意識が増す中、昭和20年6月19日午後10時30分過ぎに空襲警報発令、それからほどなく午後11時過ぎ、西新から唐人町あたりからB29による爆撃が始まった。罹災(りさい)地域の約8割が、当時の福岡市の中心部、博多部、冷泉・中洲地区であった。
福岡市全体の4分の1が罹災し、12,700戸が被害を受け、6万人が家を失った。
死亡者900人余り、1,000人以上の市民が重軽傷を負っている。



どこの被害も悲惨であったに違いないが、中でも、博多区上川端町「第十五銀行ビル」の地下室へ退避した住民63名が、停電のため出入口の鉄扉が開かず、熱風とガスにより焼死、窒息死したことは、空襲の凄惨さを如実に語っている。
運び出された遺体は、かきむしるように空に手を伸ばしたままの人、幼子を抱いたまま人、頭部のない人たちだったという。
現在、第十五銀行ビルの跡はなく、“芸どころ”博多にふさわしく、劇場「博多座」が建てられている。

戦後間もない昭和23年、福岡市で国民体育大会のために競技場建設が行われ、翌昭和24年に野球場が建設された。大空襲を受けた福岡の街は平和への祈りを込めて、そこを「平和台球場」と名付けた。
その平和台球場は、後に、鴻艫館(こうろかん)の発掘調査のため掘り起こされたが、球場跡南西側の外野席の下に、幅は約5メートル、厚さ約5センチ、長さ約60メートルの弧になった福岡大空襲の焦土が黒々と帯状に現れた。広島、長崎、東京などの悲劇だけではなく、身近に戦争の恐怖があったことを証明しているのである。平和台の下から現れたことに何かを感じたのは筆者だけではあるまい。

65年が過ぎ去ろうとしている今、人々の戦災の記憶、平和であることの感謝心が、歳月とともに風化していることが確実にわかる。
それは、福岡大空襲に限らず“戦争”を知らない人々が圧倒的に増えているのだから仕方のないことかもしれない。

しかし、現在の日本という国が、戦争を体験した人の辛酸の上に、戦後はかり知れない努力と苦労が積重なって復興されてきたということを、空襲によってたった数時間で焦土と化したわが福博の街の変身を通して、私たちは「想像」することはできる。たとえ、太平洋戦争を経験していなくても、経験者から直接話しを聞くことができなくても、本であったり映画であったり、ときには漫画であったり、今ではインターネットからであったりと、いろいろなものから知ることができる。そして、当時へ“思いを馳せる”ことはできる。

そうすることが、平和への感謝と同時に、それぞれに問題を抱えながら今を生きている私たち自身の人生を“鼓舞”することになるのではないかと思う。

焼け野原になった街を見渡し、「何もかも無くなった、もう終わりばい」と絶望し虚脱した、当時の人々の心を想像すれば、今の私たちは、
「こんぐらいどげんもなか!」と
言えることが多いのではないだろうか。

K・N

ライン

終わりに
最後まで、お読みいただきありがとうございます。
体調を崩しやすい時期です、くれぐれもお体にお気をつけ下さい。
ご意見、ご感想、ご要望ございましたら、どんなことでも構いません。ぜひお聞かせ下さい。
(こちらからどうぞ melmaga@office-hirano.com
また、当所のホームページにはメールマガジンのバックナンバーを全て掲載している他、経営支援サイトなどもございますので、是非ご覧下さい。
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